鯨飲馬食

いろいろつまみ食いで勉強したことのメモ書き

「観察力の鍛え方」を読みつつ思ったこと

佐渡島庸平さんの本「観察力の鍛え方」を読んだ。いろいろ考えながら読んでしまったので、書かれていることをしっかり観察できていない気がとてもしている。思ったことをここで書き出して、ちょっと間を置いてもう一度読み直してみようと思う。

ここしばらく、会議や1on1の前に一人で準備の時間を取るようにしているが、対話の中でそれを表に出すかどうかに関わらず、仮説を手元に持っておくことで、相手の話をより深く聞くことができるのを実感している。

仮説は「自分としてはこう思う」という、内から外へ向かう流れなのがポイントな気がする。外から内へ向かってくる相手の話は自身にとっては異物であり、それをそのまま受け入れるのは難しいことがある。相手の言葉を一旦受け止め、それを自分の内から外へ向かう仮説に沿わせて脳内再生し、一致点、相違点を意識していくことで、拒絶反応を抑えて冷静に観察できるのだと思う。

「思ってたのと違う」と感じることを歓迎できるかどうか。それにより、同じものを観察していてもズレに気付けるか、見逃してしまうかが変わってくる。間違うことを怖がっていると、知らず知らずのうちに目を逸らしてしまってズレを見逃すことがある。

自分は間違うのを怖がることはあまりないと思うが、コンディションに依っては楽しめない気分の時はあって、そういう時もギャップを見逃さないように必死にしがみつこうとしちゃいがちだと思った。見逃すことを怖いと思っているのかな。

怖さにコントロールされているのは楽しくない感じがするので無理しないようにしよう。気分乗らない時は見逃しOKとしよう。

言語化により、見えやすくなる部分がある一方で、逆に見えにくくなってしまう部分が出るというのは興味深かった。

感情は記録に残らず、後世の人が理解することはできないけれど、感情が歴史を変えてきたと言われると、そうなのかもと思う。感情のように、見えないけど今この瞬間に存在しているものに気づいていけると面白そう。

自分の視点からはあいまいに見えていても、相手の視点からは違った見え方してるかもしれないと思えるようになって、あいまいなことをあいまいなまま受け入れること、最近少しだけできるようになったと思っている。

相手の視点でどう見えてるのか、知りたいと思い問いかけはする。だけど、相手が見ているものが全部見えるようになるわけじゃないし、こちらの見方を押し付けて、見えていたものを見えなくしてしまったら元も子もないので、ほどほどにしておくのが吉と思っている。